綾音は今日も父親の病院の中を探検していた。

綾音の父親はこのポケモン病院―――ポケモンセンターでは助からないような

重大な病気や大怪我を治すところ―――の院長をしている。

ちなみに母親は副院長だ。(二人とも両親は金持ちだったのだろう…)

両親ともども娘には甘く、病院の中は綾音の格好の遊び場と化していた。

 

今日は綾音の世話担当となってしまっている看護師が

偶然にも風邪を引いて休んでいた。

「今日はお姉さんがいないけどお利口にしている!綾音がんばるっ!」

心配する両親の制止を振り切りいつものように病院の中を歩き回り…

「あれ?ここどこ?」

…迷った。他の看護師に任せればいいのに放置していたためであろう。

普段なら看護師が静止するのだが歯止めのいない子供は何をするかわからない。

「確かここってパパとママが入っちゃ駄目って言ってた所だよね…

んぅ〜…ちょっと位なら分からないよね。うん!」

一人で納得すると赤い字ででかでかと

『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたパネルの下がる

鉄製の重々しい扉をゆっくりと開いた。

ここは一番東の病棟の一番隅にあるエレベーター脇の死角。

女の子が入っていった事など誰も気づきはしない。(そんな所にあるのがふしz(ry)

「んしょっと…うわぁ暗い。」

少し不安な顔をするが好奇心が勝るのはこの年頃の子供なら当然。

電灯が切れて差し込む光は今開いた扉から差し込む光だけと言う薄暗い中、

急な階段を一歩一歩ゆっくりと下りていった。

子供には長い階段を下りきるとそこには何の変哲も無い廊下がのびていた。

変わっているところといえば地下にあるため窓が無いと言う所。

蛍光灯の無機質な白い光で照らされ、より一層機械的に映ると言うところだろうか。

「なぁんだつまんない。でも、折角だから探検しとこうかな。」

廊下を少し進んだところで周りを見回していると

がちゃり…きぃぃばたん。

「やれやれ。ママも人使いが荒い…

あれ?ここ電気が切れてる。後で換えておかなくちゃ。」

(パパの声だ!大変、どこかに隠れなくちゃ!)

院長にも関わらず小間使いのようなことをさせられている父親は

幸い階段を下りてくる途中らしくまだ見られてはいない。

慌てて近くにあった扉を開けて飛び込んだ。

薄暗く妙な臭いが漂う部屋の中、

整理された部屋の端に、他は整理されているのにも関わらず何故か

山積みにしてある空のダンボールの中に身を潜める。(お約s(ry)

足音はこつりこつりと廊下を進む。

(ここなら見つからないよね。この部屋に入るわけじゃないだろうし…)

こつ…こつ…かつ、かちゃ、ぱたん。かちかち。

「はぁ、ここも電気切れてる。えーと、天然痘の資料はっと…」

皆様のご想像通り、案の定この部屋に入ってきました。

一方、予想だにしていなかった綾音は身を硬くし、

息を殺して気づかれないよう勤める。

「あったあった。これでママに怒られなくてすむ。」

妻の尻に敷かれた威厳のまったく無い父親は部屋を出ていった。

「ぷはぁっ、やっと出られた〜」

階段を上る音を確認すると息を殺していた綾音は

ダンボールの山から飛び出て、部屋の中を見渡した。

部屋の壁沿いには小難しい題名の書かれたファイルがずらりと並び、

まだ病院らしさがあったが、

人一人の通れるスペース以外には棚が立ち並び、そこには所狭しと

妙な液体の入ったビンや臓器っぽいものが浮かぶ筒や見るからに怪しい瓶等々

○×研究所と聞いて思い浮かぶ想像図の怪しさを三倍増しした様な物が並んでいた。

「っ…!」

幼い女の子が絶句するのも無理は…

「うわぁ!本で読んだことはあったけど初めて見た!感激〜」

…あった。怪しい物達を喜んで眺めている。

「こんなにあるんだから一つくらい無くなっても気づかないよね。」

立派な犯罪ですがそんなのは気にも留めないのが子供。

小さめのビンを一つ手に取るとポケットの中にしまいこみ部屋を後にした。

ばたんと大きな音を立てて閉まる扉の上には『病原菌資料室』と書かれていた。

病院に併設された標準よりは明らかに大きめの自宅に帰ると

自室のベッドの上に寝転がり無断で持ち出したビンをしげしげと眺めた。

広口のビンで普通のビンより横長で縦と横の長さはほぼ一致しており、

口はしっかりと閉じられ、厳重に止めてある。

そのテープにもビンの蓋にも側面にも赤字に黒の髑髏マークが書いてあり、

その下には『危険!開封厳禁!』と書かれていた。

ビンの底から三分の一ほどのところまでは

動物の血によって少し赤めに染まった寒天が敷いてあり、

寒天の上には黒い染みのようなコロニーが作られていた。

「持ってきちゃったけどこれ何だろう?骸骨さんが書いてあるし開けたら大変だよね?」

大変も何も中に入っているのは炭疽菌だ。

炭疽菌の感染経路は三つある。吸入、傷口からの侵入、汚染された飲食物の摂取だ。

培養しやすく感染力も高いためテロに用いられることが多い。

人間では潜伏期間があるがポケモンではほとんど皆無なことが判明している。

…こんなのを子供が知っていたら大人どん引きだな。

好奇心には勝てないが怖い。そんなところだろう。

「でも、開けてみたいし…そうだ!」

こうきしんは きょうふに しょうりした!

何を思ったか机の中やら棚の中をごそごそと探っている。

数分して顔を上げるとその手にはモンスターボールが握られていた。

「言う事聞かないしお部屋はめちゃくちゃにするし…

パパ達には逃がしたって言っておいたけど

後で仕返しをしようと思ってとっておいたんだよね。」

えへへと笑いながらそんな物騒なことを言い出す。

「でもここだと危ないかもしれないし…あそこなら平気かな?」

綾音の言うあそことは大型ポケモン専用の古い手術室だった。

一室と言っても大きな手術室が一室とポケモンが目覚め暴れだしたときのため、

危険回避用及び見学者が手術の様子を見るための別室がある。

別室には様子見用の大きな防弾ガラスが張ってあり、

緊急時には脱出できるよう反対側に扉がある。

一番奥にあるそこは、もう使われることは無く取り壊しが決まっていた。

設備も運び出され準備は万端。着工は一週間後。

そんなところに人が来るはずも無い。そんなのが三室も並んでいる。

特に一番奥はほとんど隔離されている状態で叫んでも喚いても声など届かない。

綾音がわがままを言ったときには脅し文句として

「手術室に入れちゃうぞ〜怖いポケモンのお化けが出るぞ〜」

と言われ続けていた。(最終的にわがままは通ってしまっているので効果は無かったが。)

ビンとモンスターボールを可愛らしいポシェットに詰め込むと病院に戻った。

手術室が集まっているのは一番奥。

走っていく最中、年配看護師に「廊下は走っちゃいけませんよ!」

と言われるが今の綾音の耳には右から左に通り過ぎてゆく単なる雑音だ。

…普段も似たようなものだが…

三回転んで五回看護師と激突したがお構いなしに突き進んで行く。

ようやくたどり着く頃には肩で息をしていた。

走りすぎて赤っぽくなった顔に満面の笑みを浮かべて扉を開く。

電気のスイッチを入れると、ぶぅん…と音がして点いた。

どうやらまだ電灯関連は取り除かれていないようだ。(院長のど忘r(ry)

「んふふ…出て来い!」

勢いよくボールを投げると光に包まれたミュウが飛び出てきた。

もちろん両親にわがままを言って買ってもらったもので、

危険と言う理由で技は『しっぽをふる』以外忘れさせてある。

可愛らしいリボンが長い尻尾に巻かれていた。

「ふわぁ…ふぅ…みゅぅ?」

大あくびをかました後、綾音の方をちらりと見た。

「みゅぅみゅみゅうみゅみゅう?みゅみゅうみゅぅみゅみゅ。みゅうみゅみゅう!」

「もぅ!何言ってるのか全然わかんないよ!こういうときは…」

口調からは文句を言っていることは分かったが、一応訳してもらうために

ルカリオ(これもわがままで買ってもらえた。)に同時通訳をお願いすることに。

訳「久しぶりに呼び出したと思ったら何ここは?

私にふさわしいものなんて何も無いじゃない。

早く部屋を整えなさい!」

「何よその態度は!そんな風だから嫌いなの!」

ミュウと綾音は額をつき合わせるようにして睨み合っていたが

綾音ははっとした顔をして

「あんたの肩にイトマルがついてるよ。」

そういい残すとすぐに額を離し一目散に別室の中へと駆け込んだ。

ドアを閉める直前にビンを思いっきり投げつけるのは忘れなかった。

「!?みゅみゅみゅみゅ!みゅうみゅみゅうみゅぅ!」

訳「!?どこどこどこ!あたし虫嫌いなのよぉ!」

大きな目をさらに大きくして全身を見回す。

しかしすぐに走り去る綾音に気づく。

「みゅ!みゅぅみゅうみゅー!」訳「あ!騙したわねー!」

不意をつかれたミュウはとりあえずすぐに綾音の後を追うが…

ひゅ〜…がん!ばたん!どん!

がつんと頭に変なものをぶつけられ、鼻先でドアを閉められて鼻もぶつける。

そんな風にされれば誰でも怒る。

怒りに燃えるミュウの横でごん、ごとんと鈍い音がしてビンが着地した。

額と鼻から流血しつつ不思議そうにビンに近寄る。

そこから覗く寒天はミュウにとってレアチーズケーキに見えた。

「みゅう!みゅぅみゅみゅみゅう!」訳「まぁ!あたしこれ大好物なのよ!」

注意書きには目もくれず、寒天を取り出すと勢いよくかぶりついた。

途端に口から流血&あまりの不味さに顔を真っ青にしながら吐き出した。

「み゛ゅう゛っ!みゅみゅう!みゅぅ〜みゅみゅみゅみゅぅみゅぅ…」

訳「まずっ!何よこれ!!痛〜舌かんじゃった…」

そんな愚痴を言われても知ったこっちゃない。まったくもって自分が悪い。

そんなミュウの様子を見て綾音はけらけらと笑っていた。

「あはははっ。食べてる。食べれるわけないのにねー。

あ、ルカリオちゃんはもう戻ってていいよ〜。ありがとね。

ふふっそれにしても面白い。」

笑われていることに気づいたミュウは怒り、

綾音に近寄ろうと立ち上がり…

開けたときに落として割れていたビンの蓋を思い切り踏んづけた。

「み゛ゅ!みゅみゅうぅぅ!」

綾音は腹を抱えて笑い転げている。

「きゃははは。そろそろビンの効果が出てくるかな?」

笑いすぎて浮かんだ目じりの涙を拭いながらそんなことを呟き、

きらきらした瞳をしながらガラスに額を押し付けた。

ミュウは足に刺さったガラス片を取り除き、傷を確かめた。

ざっくりと切れた傷口からは血が溢れ、結構深く切ってしまっているようだ。

「みゅぅ…みゅう?」

気になったのはその傷口の周りが赤茶色くなっていることだった。

気づかないうちに虫にでも刺されたのかと嫌そうに周りを見回す。

大きめのガラスの破片に映る額の傷も同様に赤茶色くなっていた。

足はともかく額の方は痛みよりも痒みのほうが勝り、

傷が抉れ、広がり、血が流れ出すのを完全に無視して掻き毟る。

「みゅう!み゛ゅうぅぅぅぅ!!!」

筋組織に傷がつき切断される。その激痛に耐えかねて叫び声をあげた。

赤茶色く染まった皮膚の周辺には赤い斑点や水疱が出来ている。

「みゅうぅみゅうぅ…」

足の傷口を押さえ尻尾で足の付け根を縛り上げながら額を掻き毟る。

そのたびに水疱がぷつっぷつっと小さな音を立てはじける。

ぎゅうぅと縛ると流れ出る血は弱まるが足からは見る見る血の気が引いていった。

ふと掻く手の動きが緩慢になる。

顔は赤くなり、目はとろんとし、時折眉間に皺が寄る。

「みゅうぅぅ…みゅぅっ」

額を掻いていた手はいつしか頭を抱えるようになっていた。

「みゅうぅ…ぅえぇぇっぇっ」

目に涙を浮かべながらこみ上げるものを押さえもせず垂れ流す。

嘔吐物の中には先ほど口にした寒天も混じっていた。

「うえぇっ!ごふっけほっ」

寒天とは違う赤やピンクのものが混じった胃液を吐き出す。

赤は内臓からの出血。ピンクは喉の奥の皮膚が爛れ剥がれ落ちたものだ。

喉は腫れあがりぽこっと膨らんでいる。

浮かび上がろうと体を動かすが、

「みゅうっ!?」

激しい筋肉痛と腹痛によって尻餅をつく結果となった。

腹を押さえ、えづくが血と胃液と唾液が混ざったものしか出ては来ない。

足はすでに壊疽を起こしかけ、額の傷の周りは潰瘍が出来ている。

目はうつろで気にしている風もなく、手足は小刻みに震えている。

「…まずいかも。」

綾音はようやく危険性に気づき、慌てて父親を呼びに走る。

綾音のことなどとうに目に入らなくなっているミュウは

いきなり目を見開いたかと思うと白目をむき、涎を垂らしはじめた。

「み゛っ!かはっ!ぁ゛っ」

舌をだらりと垂らし頭を小刻みに震わす。

顔色は見る見るうちにピンクから白、青と変貌を遂げていく。

今までもふらふらしていたが遂に後向けに倒れ、深い眠りについた。

ばんっと大きな音がして別室の扉が開かれた。

そこには防護服を着込んだ綾音とその父が立っていた。

頼りなくはあっても医者は医者。

すぐにミュウに駆け寄ると抗生物質の入った注射を打つ。

脈を確認するとかすかながらあり、

酸素マスクをつけさせ集中治療室へと運び込む。

意識は戻らないが抗生物質が効いたのだろう。

とりあえずは安定している。

後は10%弱しかない可能性に賭けるのみだった。

父親は集中治療室から出ると普段のへらへらした様子からは

想像もつかないような厳しい表情で綾音に話しかけた。

「…入っちゃいけないって言った所に入ったね?」

「…あぅ…ごめんなさい…」

「あのミュウを見てこう思ったよ。綾音じゃなくて良かったって。

でも、一歩間違えば綾音もああなっていたんだ。もう入ってはいけないよ。」

優しい口調が胸に染みる。強く叱られた方が楽と思えるほどに。

「…怒らないの?」

恐る恐る不思議そうに顔を上げる綾音の頭を優しく撫で、

少しの間の後、ゆっくり口を開いた。

「…パパも昔、ポケモンを苦しませたことがあったんだ。

パパの場合はポチエナ―――ポチだったよ。

ポチとパパはとても仲の良いパートナーだった。

でも、一度だけライバルだった奴に負けたんだ。

スパルタで育て上げたあいつのポケモンとのレベル差はかなりあって

バトル自体にさして興味のなかった当時のパパが負けるのも当然だった。

でも、ずっと信じてきたポチに裏切られた気がしたんだ。

傷だらけのポチをポケモンセンターに連れて行って

治療を待っている間ずっとライバルの高笑いが耳から離れなかった。

戻ってきたポチの笑顔で無邪気に尻尾を振る姿を見て

頭にかっと血が上って何も考えられなくなった。

ポチを乱暴に抱えあげて自分の部屋に駆け戻ったんだ…」

〜※〜※〜※〜

「何で!何で負けたんだよっ!」

「きゃうっ」

優一はヒステリックに叫びながらポチエナを床に叩きつけた。

「きゅぅん」

尻尾と耳をねかせ、すまなそうにするポチエナを見ても怒りは増すばかりだった。

「何で!何でだよ!何であいつなんかに負けたんだよ!」

手近にあったものを投げつけているうちにキャップの外れたボールペンが

ポチエナの頬を掠めて血が流れ出した。

その血を見るとふぅっと黒いものが胸にこみ上げてきた。

「…そうだ、負けるような悪い子には当然お仕置きをしなきゃだよね。」

聴きなれない言葉に首をかしげ不安そうに見上げるポチエナ。

そんなポチエナにボールをかざして戻してから、

いくつか電話をすると、地下倉庫への階段を下りていった。

一応作ったのは良いが、要らないものは捨ててしまうため

ほとんど物のないがらんとした倉庫の中心でボールを投げた。

現れたポチエナは来たことのない場所と見たことのない主人の様子に

完全に怯えきっており、小さく震えていた。

「今日はお父様もお母様も仕事で夜中まで帰っていらっしゃらない。

幸恵さんと美里さん(お手伝いさん)には休むよう連絡した。

どんなに喚いてもかまわないぞ。」

皮肉な微笑を浮かべながら発された言葉に、愕然とした表情を見せながらも

哀願するような瞳を主人に向けるポチエナを見て優一の良心はちくりと痛んだ。

しかし、そんなものを感じたのは一瞬のことで、

小さな痛みはあっという間に黒いものの奥深くへと沈んでいった。

「…そうだ。今日は僕の勉強の手伝いをしてもらうよ。

いい子で大人しく待っているんだよ。」

「…きゅぅ…?」

いきなり階段を上がっていく主人に戸惑いながら、

恐怖が去ったポチエナはまだ不安な面持ちながらも安堵のため息をついていた。

自分の戦い方を反省しながらぼんやり待っていると、

優一が大きな鞄を引きずるようにしながら下りてきた。

ポチエナが慌てて駆け寄り心配そうにしても、

そんなことには目もくれずに、何かの準備を始めた。

「ポチ…ちょっと来て。」

先ほどとは打って変わって笑顔で手招きをする優一に

再び不安がこみ上げて動かない足を心の中で叱りつけながら

ポチエナはゆっくりと主人に近づいていく…

不意にがしっと首を押さえられ、思わずもがいてしまうが、

優一の舌打ちに耳をびくっとさせて、大人しくなった。

「ちくっとするけど我慢するんだよ。」

ポチエナがその言葉を理解するより先に、いきなり背中の辺りに鋭い痛みが走り、

情けない悲鳴を上げてしまうが、どうにか暴れようとする身体を抑えた。

「………はい、終わったよ。あ、そうだ。説明してなかったよね。

今注射したのは筋肉の動きを阻害する薬。

もちろん心臓とかには聞かないように調節してあるよ。

それで、今日はポケ医学の勉強をしようと思うんだ。

僕がお父様みたいな立派なポケモンのお医者さんを目指してるのは知ってるよね?

だから、勉強のためにも…アイツに勝つためにも、

ポチの弱いところを中から探してみようと思うんだ。」

そう言いながら鞄の中からメスや鉗子等を取り出して並べていく。

「ポチには解剖実習の実験台になってもらうよ。

もちろんお仕置きなんだから、麻酔は使わない。いいよね?

…まぁ、駄目って言っても無駄だけど。」

言葉の途中から笑顔が徐々に消え、無表情になっていく。

ポチエナはその様子を、自由が利かなくなっていく手足を

必死で動かそうとしながら涙目で見上げる。

優一は黙って見下ろしながら不意に微笑み声をかけた。

「そんなに震えないで。ただのお手伝いなんだから。

…死なないように頑張るから。ね?」

ポチエナは笑顔の中で唯一笑っていない目を見つめながら

自分の意思では動かす事の出来ない四肢を震わせ、

縺れる舌で必死に声を絞り出そうとしていた。

「そろそろ薬が効いてきたかな?その薬便利だろ?

身体の自由は奪うのに感覚はそのままなんだ。

どこの製薬会社が開発したのか知らないけど、

こんな事にしか使えそうにないよね。

…さてと、精一杯有効活用させてもらおうかな。」

そう言って優一は置いてあった器具の中からバリカンを掴むと

ポチエナの身体をごろりと転がし、仰向けにさせた。

「それじゃ、オペを開始します。

まずは邪魔な毛を剃らなきゃだよね。」

びぃぃぃん…じゃりじゃりじゃりじゃりと盛大な音を響かせながら

灰色の毛の下から薄桃色の皮膚が顔を出していく。

ポチエナは、地肌を空気に晒しながら、

恐怖に塗りつぶされていく心の片隅にあった、

『これは主人の悪い冗談で、自分を抱きしめて

太陽のような笑顔で微笑みかけてくれるのでは…』という

唯一の希望さえ儚く崩れ去っていくのを感じていた。

ポチエナの目からは知らず知らずのうちに涙が一筋流れていた。

優一はそんなポチエナの様子にまた心に痛みを感じたが、

『ポチエナが悪いんだ…悪い子にはお仕置きが必要なんだ!』と

自分に言い聞かせ、バリカンをメスに持ち替えた。

「…いくよ。」

優一は一声かけるとメスを小さく上下するポチエナの腹に押し当てた。

手ごたえもほとんどなく、すぅっと刃先が潜り込み、

そのまま下へと滑らせていくと赤い筋が描かれたと思ったら

あっという間にその筋が太くなり、腹から背中へ幾筋も流れていった。

ポチエナはメスが動くたびにぴくっぴくっと身体を震わせて、

どうにか動く目で必死に痛みを訴えようとするが

「…すごい…」

優一の目は好奇心と黒い気持ちが混ざり合い、

ポチエナの訴えなど気にも留めていなかった。

くちゅ、と中に指を差し入れ、左右に開こうとするが、

まだ手術器具の使い方も分からない優一には

自然と閉じてしまう傷口をとめる事ができず、

何度も傷口を開いては、そのたびに、

ポチエナが声無き悲鳴を上げていた。

「…縦に切っただけじゃ上手くいかないな。

横も切らなきゃ開けないみたいだね。」

優一の言葉にこれ以上の痛みは耐えられないと

ポチエナは涙をあふれさせて必死で伝えようとするが、

喉の奥からはひゅーひゅーという空気の漏れ出す音しかせず、

優一の注意を引くことはできない。

優一は傷口の上下を脇腹から反対側の脇腹にかけて長く切り、

元々あった傷口に手をかけると思い切り広げた。

みちみちみちみち…ぶちぶち…べりぃっと傷の浅かった部分を

無理やり裂き、筋肉や血管を引きちぎり、

左右に肉が押し広げられていくとともに

血と腸がぶわぁと溢れ出してきた。

「うわぁ…触ってもいい…よね…?」

誰に聞くとも無しに呟き、ふにふにと内臓をつつく。

腸や肝臓に触れながら徐々に上のほうへと手を滑らせていく。

「あったかいし、それに柔らかい…

………え…………?」

ふと、指を止め、ぼんやりと見つめる視線の先には

動きを今にも止めそうな心臓があった。

よく見れば、ポチエナの目からは光が消え失せぐるりと白目を向き、

口からは大量の血と涎とともにありえない長さの舌が垂れ下がり、

顔は血やら鼻水やら涙やら唾液やらでべとべとになっていた。

優一はぼぅっとそれを見つめていたが、

目の前の事態を認めた瞬間、顔からさぁっと血の気が引いた。

「ポチ…?…ポチ!?ポチ!!!」

ポチエナの名前を必死で呼びながら混乱する頭の中で

ふと、浮かび上がるものがあった。

それは前に父が教えてくれた事で、

手術中に患者の心肺が停止したときの対処法だった。

その時は軽く聞き流し、父も簡単にしか教えてくれなかったが、

頼れるのは自分と頼りない自分の記憶しかなかった。

「えぇと、まずは、まずは、えぇと、

あぁっ!落ち着け!えぇと…

そうだ、心臓を動かさなくちゃ。」

震える手で小さな心臓を摘まむときゅっきゅっと刺激を与えつつ、

溢れ出た腸を押し込み皮膚を押さえた。

「えっと、つ、次は…

こ、呼吸をさせないと…」

血脂で濡れた手をポチエナの身体から引き抜き押さえながら、

あごを引き上げると鼻と口を咥えて息を吹き込んだ。

血と唾液塗れになった口を離し、拭う事もせずに

心臓を圧迫しつつ鞄の中にあった布でポチエナの身体を巻き、

これ以上血が流れ出るのを防いだ。

しかし、ポチエナの周りはすでに血だまりと化しており、

その身体からは急速に暖かみが失われていった。

「ポチ、ごめん…ごめんね。

ポチ…お願いだから、お願いだから死なないで…」

自分のしたことを悔やみ、自己嫌悪に苛まれながら

ポチエナを生き返らせようと必死だった…

〜※〜※〜※〜

「…それで、ポチはどうなっちゃったの?

死んじゃったの…?…ふぇ…ぅぅ…」

「綾音、泣かないで。ポチは死んでないよ。」

「ほんと!?よかったぁ…でも…何で?」

「まだ子どもだったパパから休んでいいって連絡をもらったのを

不思議に思ったお手伝いさんがパパの父さん――綾音のおじいちゃまだね――に

確認のために連絡をしたんだ。それですぐに帰ってきたから

ポチはすぐに治療してもらえて一命をとりとめたんだ。」

「…おじいちゃまにいっぱい怒られた?」

「まぁね。でも、怒られるのよりポチがいなくなる方が

ずーっと怖いから全然平気だったよ。」

「そっか…」

「その後ポチと仲直りして…前よりずっと仲良くなって…

ライバルには勝てなくても今まで通りで良いって分かったんだ。

それで、ポチは綾音の生まれるちょっと前に寿命で亡くなった。

最後までポチは幸せそうに天国へ行ったよ。」

「そか…ポチに会ってみたかったな…」

「そうだね…きっと仲良くなれたと思うよ…」

そう言って寂しそうに宙を見上げる優一に対し、

綾音は浮かない顔だった。

「ミュウちゃん…大丈夫かな…」

「大丈夫。だってパパが診たんだよ。」

「だから心配なの。」

「…綾音〜…」

よよよと涙を流す父親にえへへと笑って小さく舌を出す綾音。

それを見て、少し困ったような笑顔をしつつ安心した様子の優一の後ろから

伸びる黒い影から奇妙に明るい声が響いた…

「パ〜パ〜?こんな所で何してるのかしら〜?

ママは一生懸命パパの分もお仕事してるのに、

パパは綾音と遊んでるの〜?

ママも綾音と遊びたいのにちょ〜っとずるいんじゃない〜?」

顔は笑顔なのにどす黒いオーラが周りに漂い、

あるはずのない角が見えるように感じられる女性が

優一の背後からぬぅっと…

「…マ、ママ!?あ、あはは、はは…こ、これは、その…つ、つまり…」

「問答無用っ!!!すぐに戻ってもらうわよ!

綾音〜♪帰ったら“マ・マ・と”い〜っぱい遊ぼうね〜♪」

「あっ…ママ、違っ―――!」

コブラツイストからのヘッドロックをくらいながらも

しーっと人差し指を口に当て、ウインクをする優一に

綾音は口を閉ざし、その間に二人は去っていってしまった。

「…パパ、ありがとう…」

そう呟く綾音の目には涙が光っていた。

その後、ミュウは回復したが今までのことは綺麗に忘れており、

改めて綾音と仲良くなって三人と一匹で仲良く暮らした。

もちろん、綾音がポケモン医を目指したのは言うまでもない…

――めでたしめでたし――